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レコードチャイナ 配信日時:2014年12月10日 19時50分
http://www.recordchina.co.jp/a98664.html
中国学者、「中国は経済的に台頭したが、文明的にはまだ台頭できず」と指摘―仏メディア
●6日、中国の専門家がこのほど講演で、中国は経済的には台頭したが、実力だけで能力が備わっていなければ短命に終わってしまうと懸念を表した。写真は勤勉や愛国を訴えた中国のポスター。
2014年12月6日、ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)中国語サイトによると、中国のポータルサイト・騰訊(テンセント)の主催するフォーラム「思享会(Think Big)」の冬季会議が3日北京で開催された。華東師範大学の許紀霖(シュー・ジーリン)教授が講演し、
「中国は経済的に台頭しただけで、文明としてはいまだ台頭していない」
と指摘した。
許教授は講演で、今日の中国人は19世紀の欧州人とよく似ており、貪欲さと欲望に満ち、弱肉強食の世界にあると指摘。
中華文明の象徴とされる孔子や朱熹、王陽明らが仮に生き返ったら、欧米よりも欧米らしくなった中国に驚くだろうと話した。
また、中国は昔の日本のように欧米に学ぶ模範生となったが、その学習は甚だ偏っており、「文明のテスト」にはいまだ合格できていないと語り、
大国は実力だけで能力が備わっていなければ短命に終わってしまう
と懸念を表した。
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レコードチャイナ 配信日時:2014年11月10日 23時10分
http://www.recordchina.co.jp/a97192.html
役人は特権階級か?自分では何1つできない低能官僚に「庶民の心を取り戻せ」と批判―中国紙
2014年11月9日、中国紙・中国青年報は
「官僚の『低能化』はメディアの作り上げたものなのか?」
と題した記事を掲載した。
最近、
「VIPルームが閉鎖されたため、飛行機の搭乗手続きができない河北省の県委書記がいた」
との報道があった。
この県委書記は「これまでVIPルームのスタッフが手続きをすべてやってくれたので、自分ではどうやっていいのかわからなかった」と話したという。
この記事に対し、ネットユーザーは
「こんな無知な人間が地方を管理しているとは」
「どうやって役人になれたんだ」
と批判を寄せているが、数々の特権を利用している役人は確かに存在する。
地方政府の役人には貧しい家庭の出身者が多く、子供の頃から一生懸命勉強して現在の地位に登りつめた。
だが、権力を手にした途端に過去の自分を忘れてしまい、特権階級の生活に染まってしまう。
車のドアを開けるのも、車を運転するのも、スピーチの原稿を書くのもすべて他人まかせ。
自分で何もしなくなるうちに、何もわからない「低能な」人間に成り下がっていく。
メディアはこうした役人の「退化」や「無能ぶり」を報道するが、それよりも役人に与えられた特権そのものにスポットライトを当てるべきだ。
同時に役人は特権を放棄し、普通の日常生活を取り戻さなければならない。
そうしなければ庶民の悩みや苦しみを理解することは到底不可能だろう。
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サーチナニュース 2014-11-10 13:11
http://news.searchina.net/id/1548898?page=1
地方の共産党トップが「低能」、「うすのろ」と言われるのは、メディアのせいなのか?=中国青年報
中国青年報は9日付で、
「官員の“低能イメージ”は、メディアが(官員を)妖怪のように扱った結果か」
と題した論説を掲載した。
市や県のトップである共産党書記が「庶民ならだれでもできることができない」、「うすのろ」などと言われているのは、事実とは異なるが、そういわれないためには、
指導者らが「なんでもお膳立てしてもらう」ような特権を手放すことが必要
と主張した。
共産党機関紙・人民日報系のニュースサイト「人民網」が3日、「河北省のある県委員会書記」にまつわるエピソードを紹介したことで、共産党の指導的立場ある者を「低能」、「うすのろ」などと評する声が高まった。
同書記は、最近になり空港のVIPルームが閉鎖されたことで
「飛行機には数えきれないほど乗っているが、VIPルームのサービスがなくなったら、私は都会に来たばかりの農民よりもウスノロだ。
チケットの予約も受け取りも、搭乗券の受け取りも、人に聞かないと何もわからないぞ」
とこぼしたという。
同エピソードに対して
「この程度の知能指数の奴が、地方を管理しているのか」、
「どうやって地位を得たのだ?」、
「脳みそが病気です」、
「とっととおうちにお帰り」
などの声が相次いだ。
中国青年報は9日付で、「官員の“低能イメージ”」をさらに分析する論説を掲載。
まず、共産党の県委員会書記ともなれば、
「出かける時には、だれかがかばんを持つ」、
「車から降りるときにはドアを開ける人がいる」
など、さまざまな特権を持っているのは事実で、地位ある者の特権を批判するのは意義あることだと論じた。
しかし中国青年報の論説は、指導者の特権を批判する人にも、問題があると主張。
「演説の内容も自分で決められない」、
「原稿も自分では書けない」、
「かばんも持てない」、
「茶を飲むときにもカップを自分では持てない」
などの言い方を「行き過ぎ」として批判した。
論説はさらに、現在における幹部の選ばれ方について
「多くは貧乏な家の出身、少年時代は貧しいながらも向学心を失わなかった」、
「地元の幹部になってからは、多くの者は農村で勤務をした」
と指摘。
そして、地位を高めてきた者が、演説原稿も書けないほど低能であるとは考えられないと、主張した。
「航空券も自分では買えない」、
「病院に行っても診察のための手続きができない」
といった、常識人ならできるはずのことができないのは、「特権に甘えているからだ」と指摘。
論説は、地方指導者は、特権を使わない「非特権生活」をしてみるように勧告。
地方指導者は報道などで顔を知られているので、たとえば病院で診察を待って行列している時、「指導者」と知った病院側が、そのまま並ばせておくかどうかは何とも言えないが、それでも、病院に行ってもなかなか診察を受けられないと言う庶民にとっての実情は体験できると主張した。
また、航空券の扱いについても、自分で初めてやった際にはまごつくだろうが、それから後はできるようになると主張。
特権を1度捨ててみれば、庶民の生活の大変さも理解でき、
「『「自分のことも自分でできない』、『低能』などとあざ笑われることもなくなる」
として、文章を結んだ。
**********
◆解説◆
上記論説はまず、地方の指導者などへの批判には、事実とは異なる行き過ぎた面があると指摘。
当局の立場からしても「穏当」な主張だ。
ただし、地位ある者がさまざまな「特権」を行使して、「庶民の生活が分からなくなっている」ことは事実と指摘。
直接書いているわけではないが「人民のために奉仕」をスローガンとする共産党政権に「あるまじき状況」が発生している指摘しているのは明らかだ。
文章の結びの部分でも、「低能」などと言われるのは、指導者側の「自業自得」と主張している。
なお、県や市、さらに省のトップや中央政府の要人が、猛烈な向上心を持って、地位を高めてきたのは事実だ。
一方で、自らの地位を高めてしまえば、「特権」を得ることも当然と考える者が多いのも事実。
さらに、自らの「特権」を“有効利用”して、さまざまな利益を得ようとする。いわゆる「腐敗」の発生だ。
中国人には、「地位に応じた役得があって当然」と考える人が多いとされる。
中国青年社会調査センターなどが2010年に行ったアンケート調査によると、回答者1万1219人のうち、94.8%が「日常生活中に、普通の人が権力を乱用する現象が広くみられる」と回答した。
官僚などに限ったことではなく、守衛、教師、電話交換手など、ささやかな「職権」を得た人が、それぞれの立場で「権力の乱用」をはじめるとの指摘だ。
つまり、
中国で発生している「腐敗問題」は、官僚などだけの問題ではなく、「役得は当たり前」との考え方
に歯止めがかかりにくい、社会的風潮全体にあると考えられる。
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サーチナニュース 2014-11-17 21:01
http://news.searchina.net/id/1549968?page=1
一部幹部はもはや「人」ではない、
問題の根本は「徳の欠如だ!」
・・・中国共産党が論語も引用して激烈批判
中国共産党中央紀律委員会監察部は17日、
「徳と法は互いに補ってこそうまくいく」
と題する文章を発表した。
中国ではこのところ、「法治主義」を改めて強調していたが、同文章は
「一部幹部はもはや『人』の姿をしていない。
問題の根本は『徳』の文字にある。
徳が欠けている!」
などと、腐敗幹部を強烈に批判した。
文章は、中華民族の伝統概念として
「国を治めることは家を治めることから始める。
自らの身を修めてこそ、家もうまく管理でき、国もうまく収めることができる」
と主張。
中華伝統文化の核心は「孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥」として、中華民族の子孫の一人ひとりの骨髄にしみこんでいると主張。
さらに、これまでは「孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥」の価値観に挑戦する者はいなかった論じた。
文章は、
「法律がさらに健全になり、法体系がさらに完備されても、最終的には人が執り行うことになる」
と指摘。
指導幹部に「徳」の面での問題があれば、
「綱紀は必然的に緩み、法令は執行できなくなり、必然的に規則違反と違法行為が出現し、腐敗に向かっていくことになる」
と論じた。
文章はさらに「論語」を引用。
「君子三年礼を為(な)さざれば、礼、必ず壊れん(やぶれん)。
三年楽(がく)を為さざれば、楽必ず崩れん」
として、決められたことを守らず放置すれば、秩序は失われると主張。
「最近になり明るみに出た腐敗案件をみれば、一部の幹部はもはや、人間の姿をしていない。
問題の根本は『徳』の文字にある。
徳が欠けている!」
と厳しく批判した。
文章は指導幹部に求められるものは
「徳をもって政治を行う。
まっしぐらに身を修める。
党員指導幹部は古きを鑑として、畏敬の念を持ち、人の目に触れなくとも用心深く心を正しくし、規則を重んじ、戒律を守らねばならない。
絶対に、やりたい放題に、度胸にまかせて理不尽なことをしてはならない」
などと主張した。
********** ◆解説◆
中国共産党中央紀律委員会監察部がどの程度まで意識したかは不明だが、
為政者の「徳」の問題まで強調せねばならないことは、腐敗問題の深刻さを改めてはっきりさせたとも言える。
なぜなら、中国の伝統概念では、
★.「天が認めた徳を持つ者」が王朝を樹立し維持し、
★.「徳を失ったと天が見切りをつけた時、別の王朝に取って変わられる」
ことになるからだ。
そのため、
「徳を失った指導幹部が存在する」
との説明は、
「このままでは共産党による支配体制が瓦解しかねない」
との危機感を示すものと解釈できる。
なお、論語の引用部分は、「陽貨篇」による。
ただし、原典における「君子三年礼を為(な)さざれば……」のニュアンスとは異なる用い方をしている。
原典では、孔子の弟子の宰我が、父母が亡くなった際に3年間の服喪期間を設けたのでは
「礼も楽(儀礼音楽)も失われる」
と疑問を示したのに対し、
孔子は
「乳幼児であった生まれてから3年間、父母はわが子に対して無償かつ無限の愛を注ぐものだ。
そのことを思えば、父母が亡くなった場合、3年間の服喪期間を置いて日常的な営みから遠ざかることは、人として自然な気持ちのはずだ」
と説いた。
乳幼児死亡率が現在よりもはるかに高かった当時の状況を考え合わせれば、
「何とか育て上げたい」と願う親の懸命な気持ちに対して、
「3年程度の服喪の期間は、人の情として自然なものだ。
形式や後先のことを考えてのものではない」
との孔子の発想を、より鮮明に理解することができる。
』
『
JB Press 2014.10.27(月) 柯 隆
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42032
天安門事件の美化にいそしむ政治家たち歴史は書き換えることができる中国の伝統
歴史観は特定の人が持つ歴史的事件の見方であり、主観的なものである。
もちろん、歴史の事実を調査し、ありのままに記述することの重要性は否定できない。
しかし、歴史的事件をどのように見るかは人それぞれだ。
見る者の価値観や立ち位置に左右されるし、人々の記憶は部分的に曖昧になったりする。
また自分にとって都合の悪い部分は、泥が水の底に沈殿するように、自ずと見えないところへ消えていく。
中国では、歴史学は国家の存亡と王朝の交替に関わるものと認識されてきた。
歴史を研究する目的は、
歴史を鑑にして王朝を永遠に存続させていくためだった。
現存の歴史書の中でもっとも古いのは漢の時代に司馬遷が書いた「史記」である。
本来なら歴史家は自分が生きている時代の皇帝について記録するのを避けるはずだが、司馬遷は漢武帝について「武帝本紀」を記した。
しかも武帝に媚びることなく、クリティカルに書いた。
これは司馬遷の偉いところである。
■皇帝に殺されることを恐れた歴史家たち
一般的に歴史を歪曲しがちなのは政治家であると言われているが、
歴史をいちばん捻じ曲げているのは歴史学者であろう。
歴史家は客観性を追求すると言いながら、主観的価値判断で歴史を振り返る。
中国社会科学院アメリカ研究所の元所長、資中●(●の字は竹かんむりに均)氏は、
中国には「官史」と「野史」があり、「官史」は信頼できない
と述べている。
★.「官史」とは政府が雇った歴史家が記した歴史のことである。
★..それに対して、「野史」は民間の歴史家が記したものであり、政府によって認定されていないものだ。
中国で「官史」は歴史学のメインストリームであるが、「野史」は脇道に入ったものだと言える。
しかし「野史」で記録されている歴史は、枝葉の部分は別として「官史」より真実に近いものがある。
古代の中国では、王朝の中に歴史を記す専門の官僚「史官」が設置されていた。
歴史を真実に近づけるためには、史官の仕事にどこからも横やりが入らないようにしなければならない。
そこで史官の独立性を担保するために、皇帝は自らに関する史官の記述を見ることができなかった。
そのため史官が自分の皇帝を辛辣に記す記述もあった。
このしきたりを破ったのは唐の太宗だった。
太宗は唐朝の2代目の皇帝である。
太宗は史官らが自分のことをどのように記しているかどうしても見たくなり、見てしまった。
この掟が破られてから、史官たちは皇帝に殺されるのを恐れて皇帝に媚びた歴史を記すようになったと言われる。
皇帝たちは、自分が死後どのように評価されるかを気にし、自分を美化して記述するよう強要する。
史官たちは殺されるのを恐れて皇帝を美化し、その業績を過大評価する。これが現在残されている「官史」の大半である。
同じ唐の時代の女帝、則天武后はとても残虐だったと言われている。
西安郊外に則天武后の墓があるが、その墓の石碑には彼女に関する記述が一文字もない。
彼女は史官たちに自らの碑銘を書かせなかった。
碑銘に何も書かせないのが一番いいと思い、生前にそう指示したと言われている。
それだけ歴史上の人物の評価は難しい。
■「民国」研究ブームに警鐘を鳴らす人民日報
秦の始皇帝は、今では歴史的な暴君とされている。
しかし毛沢東時代の中国では、秦の始皇帝は中国を統一した皇帝として高く評価されていた。
1949年に社会主義中国が成立した。
このことについても、中国共産党が「革命」と表現しているのに対して、台湾に逃げた国民党は「反乱」と位置付けている。
コインに表と裏があるように、
歴史的人物と事件も、見方によって評価は大きく異なる。
近代以降の中国では、歴史は、為政者が世論を操作し、国民を洗脳する「宣伝の道具」と化している。
当然のことだが、近代の為政者はかつての皇帝と同じように、自らを美化する記述を史官に強要する。
1000年以上の歴史の中で史官たちはこのような迎合の術を身につけ、権力に媚びることに抵抗しなくなった。
無論、すべての人が官史を鵜呑みするわけではない。
歴史の真実を知りたい者は大多数を占める。
今、中国では、中華人民共和国が成立する前の中華民国時代(1912~1949年)の歴史研究が盛んになり、現在、ブームとなっている。
それに対して人民日報は「『民国の熱』は危険だ」と警鐘を鳴らしている。
なぜ民国時代の歴史を研究することは危険なのだろうか。
民国の時代は共産党の草創期に当たる。
その歴史について、共産党の史官たちは共産党を美化する記述を教科書などに盛り込んでいる。
それを暴くことは、共産党の権威を失墜させる可能性につながるのだ。
■天安門事件も香港デモも「動乱」?
歴史を捻じ曲げるのはたやすい。
まず、歴史上の人物や事件を白と黒に二分化する。
そして、二分化する過程で黒を真っ黒に、白を真っ白にするのである。
そうすることで、歴史は真実とはまったくかけ離れた、政治の便利な道具に変化する。
25年前に起きた天安門事件もその一例である。
中国共産党の「官史」では、あれは国家の転覆を狙った動乱だったと結論づけられている。
当時、学生たちが1カ月以上、首都・北京の中心部の天安門広場を占拠し、北京の秩序の乱れをもたらしたのは事実である。
しかし、その部分だけを取り出して動乱と結論づけるのは歴代の「官史」と同じである。
共産党はいまだにこの評価を変えていない。
ちなみに香港の「占中」デモについて、人民日報は社説で「動乱」と位置づけている。
ただし、幸いにしてそれは共産党の公式見解になっていない。
指導者は自らの権力基盤を固めるために、「史官」に自分を美化させることができる。
だが、心配も残る。
後世が自分をどのように評価するか、についてだ。
共産党指導者はみんな則天武后のように墓の石碑に碑銘を書かせないのだろうか。
天安門事件を鎮圧したときの当事者たちは、責任逃れをすると同時に自分を美化する工作を始めている。
当時、首相だった李鵬は「李鵬日記」を執筆した。
その中で
「天安門事件の鎮圧は党の正しい決断だが、私が指示したものではない」
と書いている。
そして、もう1人は、天安門事件当時の北京市長、陳希同である(事件後は権力闘争に負け、腐敗の容疑で投獄された)。
陳希同も香港で回顧録を出版し、鎮圧は自分と関係ないと強調している。
ここで知りたいのは、当時、誰の指示で軍が学生に発砲したのかである。
もしも党の決断が正しかったというのならば、その「功労者」は表彰されるべきであろう。
歴史ほど難しく、危険な学問はない。
また歴史ほど人の人格を曲げてしまう学問はない。
学者と研究者は独立自尊の精神を貫かなければならない。
しかし、歴史学者がその精神をもって歴史の真実を暴くと、身の危険に直面する。
反対に、権力者に迎合して歴史の真実を捻じ曲げると、自らの人格も曲がってしまう。
このことは過去の大戦を研究する日本の歴史家たちも肝に銘じるべきであろう。
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『
レコードチャイナ 配信日時:2014年12月4日 4時39分
http://www.recordchina.co.jp/a98455.html
<ボイス>中国の反日感情は伝統的な思想?
「矛盾が生じれば中国人は相手を排斥する」―中国歴史学者
2014年12月3日、中国の歴史学者として世界的に有名な余英時(ユー・インシー)氏はかつて、
「1つの民族の一部の歴史問題は、往々にしてその民族の現代の思想に影響を及ぼす。
そしてその歴史問題はその民族にとってますます敏感な問題となる」
と話している。
中国の伝統的な思想について余氏は、
「外国を排斥することは、中国の一種の伝統的な思想だといえる。
その原因は多くあるが、
外国人との間に矛盾が生じれば、当然その外国人を排斥するようになる。
『外国人にも言い分がある』
などと発言した日には、即座に『裏切り者』の烙印を押される」と中国の反日感情と思わせる中国人の思想について説明している。
』
【描けない未来:中国の苦悩】
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