2014年9月25日木曜日

なぜミャンマーは東南アジアのユーゴスラビアと言われるのか:

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JB Press 2014.09.03(水)  細野 恭平
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41632

急速に発展するヤンゴンと軍事的首都ネピドー
東南アジアのユーゴスラビアと言われるミャンマーに内在する課題



 先週1週間、約1年ぶりにミャンマーを訪問した。
 普段はベトナムについての記事を書いているが、今回から数回、ミャンマーについて筆を執ってみたいと思う。

 まずは、今回訪問したヤンゴンと首都ネピドーの2都市の印象を書きつつ、ミャンマーの歴史と民族の話について少し概観してみたい。

■驚くべきヤンゴンの変貌ぶり

 この1年でのヤンゴンの変貌には驚愕するものがある。
 国・人とは、こんなに早く進化できるのか、という思いだ。

 ヤンゴンは、英国植民地時代には、「東の庭園都市」と言われるほど美しく、東南アジア随一の大都市だったと言われる。
 実際、広大な公園、人口の湖、近代的な建物(当時)の融合が非常に美しく、当時の面影が今も残る。
 かつて、ヤンゴンのインフラは、ロンドンに比肩すると言われたそうだ。

 今でも、明らかに築50年以上と見える建物が多いが、その中には、4階から5階建ての中層建築物が多い。
 何十年も前に、こうした近代的な建物を建築する国力があったという証左だ。
 1942年には、日本の百貨店「大丸」がラングーンに出店もしている。

 ちなみに、軍事政権時代に自宅軟禁を強制されていたアウン・サン・スー・チー氏の自宅もヤンゴン市内にある。
 自宅軟禁と言うと、日本人は吉田松陰の蟄居(ちっきょ)のように、狭い家屋に押し込められた生活を思い描く。

 しかし、彼女の自宅は、日本人の感覚的には相当に大きい。
 湖のほとりの閑静な環境にあり、軽いジョギングぐらいは余裕にできる。
 彼女に自宅軟禁させるという行為自体は正しいとは思わないが、実際にその家を見ると軟禁のイメージが違ってくるので、少し補足しておく。

 ヤンゴン市内の道路は広い。
 僕が2年前に初めてヤンゴンを訪問したときには、この道路を走る車は少なかった。
 しかも、相当なボロ車。

 例えば、タクシーの床がボロボロなため、下の道路が透けて見えることが多かった。
 走っている途中に、うっかり足を出したものなら、複雑骨折必至。

 しかし、そんなタクシーはこの2年でいなくなりつつある。
 国内での自動車の月間販売台数は、昨年の自動車輸入制限の緩和以降、僅か60台から6000台へと急増したそうだ。
 渋滞も激化しつつある。

 携帯電話・スマートフォンもずいぶん増えた。
 かつての軍事政権下では、固定電話の保有も制限されていた。
 そのため、街中には、「電話屋」と言われる商売の人がまだ存在する。

 街角の青空屋台の電話屋さんに行くと、そこに固定電話が置いてある。
 お客は電話屋さんにお金を払うと、電話をかけることができるという仕組み。
 ようするに自動化されていない公衆電話だが、近いうちに、この「電話屋」も消滅するだろう。


●ヤンゴン市内で電話屋を営む少女。タナカで化粧している

 人々も少しずつあか抜けてきた気がする。
 どこの国でも、美意識の発展は女性が先行する。
 ミャンマー女性は、タナカと呼ばれる木をすりつぶした粉をファンデーション代わりに化粧品・日焼け止めとして伝統的に使用している。

 このタナカを塗ると、頬に黄色い絵具が塗り付けてあるような見た目になる。
 伝統的で素朴ではあるが、あまりお洒落とは正直言えない。
 ミャンマー女性もそう感じているようで、この2年で、タナカを使っている女性の数が明らかに減ってきた気がする。

■軍事政権の遺産、迷宮のようなネピドー

 一方の首都ネピドーは、ヤンゴンの北約300キロに存在する。

 かつて、日本陸軍は英領ミャンマーを占拠し、さらにアラカン山脈を越えてインドのインパールを目指した。
 その際、日本陸軍の一部が通過したピンマナという町の近くに今のネピドーは位置する。

 今でも相当な僻地だ。
 ここに、日本軍が展開していたという事実を知るにつけ、いたたまれない思いになる。
 同じように感じる日本人は多いと思う。

 ネピドーは、まだほとんどの日本人にはあまり馴染みがない。
 この町は、2005年11月、突如として世界地図に現れた。
 その当時、ミャンマーを支配していた軍事政権が、ネピドーの建設工事を秘密裏に進めてきた後、突然ヤンゴンからの遷都を発表し、世の知るところとなった。

 首都移転の理由については、3つほど説がある。

● 沿岸部のヤンゴンよりネピドーの方が他国に占領されにくいという「対外的」国防上の理由を根拠とする説

● 国内の少数民族の居住エリアに近いため、内戦の際には軍を展開しやすいという「対内的」国防上の理由を根拠とする説

● 当時の元首タン・シュエ上級将軍のお抱え占星術師の「お告げ」という説

 3つ目のお告げ説はふざけているように聞こえる。
 しかし、他の2つの説も説得力に欠けるため、お告げ説を一番有力視する意見が多い。

 そのネピドーの町は、軍事的迷宮のような構造になっている。異様である。

 ネピドーの中心部は官庁街。
 相当に広大なエリアに、多数の官庁ビルが、文字通り点在している。
 隣の官庁ビルとの距離は500メートルぐらい離れている。
 かなり遠い(歩いていく人はほとんどいない)。


●ネピドーの巨大な国会議事堂

 この官庁ビルが、きわめて不思議なのだ。
 まず、全てのビルが同じ外見・構造になっている。
 外からだと、どのビルが何省なのか見分けがつかない。

 次に、全官庁が全く同じビルを2つ持っている。
 それも、お互いに相当遠く離れた場所に。
 例えば、ある省の場合、2つのビルが互いに遠く離れた場所にあり、大臣はビルA、官房長はビルBというように別々のビルで執務している。
 訪問する人も、省内で仕事をする人も、不便であることきわまりない。

 なぜ、こんな不思議な構造になっているかの明確な説明はない。
 合理的に思いつく説明は、テロなどの攻撃を受けた場合に、標的をカモフラージュできるということだ。
 そもそも、全部同じ外見だし、各省庁も2つずつあるので、どの政府要人がどこにいるかを特定しにくい。
 いわば、軍事的迷宮のような構造になっている。

■なぜミャンマーは東南アジアのユーゴスラビアと言われるのか

 なぜ、首都を軍事的迷宮のようにする必要があったのか。
 ここに、ミャンマーの内包する政治的・社会的な課題の一端が見えるように思える。

 「ミャンマーというのは、簡単に言えば、東南アジアのユーゴスラビアなんです」
と筆者の前職の同僚で、現在JICA専門家としてネピドーに駐在する工藤氏が教えてくれた。

 ミャンマーは人口約5142万人(6000万人と言われていたが、直近の国勢調査の結果、約1000万人少ないことが判明)。
 ここに135もの民族が存在する。
 そのうち、ビルマ族が人口の約7割を占め、中央平原部に居住。
 残りの約3割の少数民族は、主に国境の山岳地帯に居住している。

 この少数民族との融和が、現在のミャンマー政府にとっては、最大の課題の1つである。
 多民族の統治という観点において、ミャンマーはかつてのユーゴスラビアと類似する。

 ミャンマーにおける少数民族問題は、英国植民地時代の分割統治に起因する。
 19世紀に進出した英国は、インド人、華人を大量に入植させた。
 また、カチンなどの少数民族を意図的に高級官僚につけ、その当時、支配的だったビルマ族を最下層に落として、被支配民族とした。
 英国による植民地統治の常套手段である。

 1940年代の前半当時、ヤンゴンの人口は50万人。うち過半数は、インド人を中心とする南アジア人であり、ビルマ人は総人口のわずか約3分の1であった。
 その他は、カレン族などの少数民族や華人が中心であった。

 こうした背景もあり、1948年のビルマの独立後も、60年にわたってビルマ族を中心とする国軍と少数民族武装勢力との戦闘が一部地域では続いている。
 特に戦闘の激しいカレン州では、40万人以上の国内避難民が発生し、10万人以上がタイの難民キャンプで暮らしているとされる。

 ミャンマーと言えば、軍事政権とアウン・サン・スー・チー氏率いる野党との抗争のイメージが強い。

 一方で、国内に多数いる少数民族との融合というのは、きわめて難しい政治的な課題である。
 2011年に発足したテイン・セイン政権は、現在、主要な少数民族との停戦協定を進めている。
 幸い、今年中にも合意がなされるとの見方が強い。

 次稿では、ビジネスマンとしての立場に立ち返り、ビジネスマンの視点で、ミャンマーについて書いてみたい。



JB Press 2014.09.25(木)  細野 恭平
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41795

なぜ、日本人はミャンマーが好きなのか? 
社会貢献意識と勤労精神で群を抜くミャンマーの人材

今回も前回(「急速に発展するヤンゴンと軍事的首都ネピドー」)に引き続き、ミャンマーについて書いてみたい。

■社会貢献意識のあるミャンマー人の経営者

 先般、弊社(ドリームインキュベータ)の創業者・会長である堀紘一と共に、ミャンマーの大手民間企業の経営者3人とお会いした。

 わずか3人だが、いずれも立派な経営者であった。
 この3人と議論しただけでも、ミャンマーという国の人材的な層の厚さ、日本人との親和性をひしひしと感じることができた。

 私が働いているベトナムでのことだが、今まで何百人のベトナム人経営者に会ってきた。
 その中で、日本人的には残念に思うことがある。
 国や社会に貢献するという意識を持つ経営者が実に少ないということだ。

 社会への貢献と言っても、大それた話ではない。
 メーカーならば、少しでも人々の暮らしをよくする商品を作る。
 小売りならば、できるだけ良い商品をそろえて、みんなに届ける。
 こうした気持ちがあれば、それは社会貢献の意識だと思う。

 ベトナムでは、ほとんどの経営者が、自らの短期的な利益を得ることを動機としているように見える。
 彼らは、少し会社が大きくなると、すぐに会社を売却して早々に引退したり、不動産に投資したりする。
 世の中をよくするということへの意識は、残念ながら非常に希薄だ。

 今回のミャンマー人経営者は、3人が3人ともに、長期的な社会貢献意識を明確にもっていた。

 その1人、ミャンマーの民間大手医療企業の社長をつとめるAさん。
 お父さんが元ミャンマー中銀の副総裁という家庭に育ち、幼少期は英国で過ごしていたため、非常に上品な英語を話す。
 食事のマナーや振る舞いも上品で、洗練されている。

 彼女は、ミャンマー国内の大学の医学部を卒業後、ミャンマーの国立の医科大学で講師をしていた。
 しかし、1990年の総選挙の際、アウン・サン・スー・チー氏率いる野党に投票し、自らその行為を認めたために公職追放になった。
 その後、医療関連の外資系の会社に転じ、現在は自ら医療関連の企業を経営している。

 「ミャンマーは、まだまだ医療の質が低い。
 私の本職は医者。
 私は事業を通じて、ミャンマーの医療事情に貢献したい。
 不動産など他の事業には全く関心がない」
と彼女は控え目に語る。

 また、今回お会いした大手卸の経営者Bさん。
 食品や日用雑貨を全国の店舗に販売する卸事業一筋20年、今では、国内有数のディストリビューション網を築き上げている。

 彼は、
 「ミャンマーのどんな田舎にも物を届けることが仕事だと思っています。
 お金というものは、食べ物と同じ。
 お金(食べ物)がないと体(会社)が回らない。
 でも、ありすぎると、それはそれで体に毒なんです」
と独特の表現で、まずは社会への貢献が大切だと真面目に語る。

 もちろん民間企業であるから、利潤を追い求めていくことは大切だ。
 これを否定するつもりはない。

 ただ、利潤だけを求めていく経営者は、危うい。
 こちらも、そうした経営者とは事業を一緒にはやりにくいが、ミャンマーの3人の経営者とは一緒にやれると感じた。
 こうしたミャンマー人の経営哲学に対して、日本人には親近感を持ちやすい。

■人前で怠けることを恥と感じるミャンマー人

 もう一つ。
 些細なことだが、ミャンマーで気づいたことがある。
 ベトナムをはじめ、東南アジアの国々では、基本的に男性は怠け者である。
 どの民間企業も優秀な現地スタッフは、かなりの比率で女性だ

 日中から、何をするとでもなく、だらっとしてコーヒーを飲んだり、将棋をしたり、ビールで乾杯をしているダメなおっさんの姿をあちこちで目にする。

 ところが、ミャンマーでは、こうした道端の怠け者おやじがほとんどいない。
 みんな、何かしら労働に従事している(ように見える)。
 たとえば、竹のような棒で道端の草の剪定をしていたり、店番はちゃんと客待ちをしていたりする。
 僕の知る限り、東南アジアで、男性がこういう心構えでいる国は、ミャンマーが唯一だ。

 ミャンマー人に聞くと、
 「ミャンマーでは、人前で怠けている姿を見せることを恥ずかしいとする文化があります」
と言う。

 このあたりの勤労意識や恥の文化も非常に日本人に近い。
 これも、日本人がミャンマーに肩入れしたくなる心情的理由の一つだろう(なぜ、ミャンマーが他東南アジアと違うのか、という本質的な点については、別稿でもう少し深く考えてみたい)。

■新興国の1年は、先進国の3年

 このようなメンタリティーに対する親近感もあって、日本企業によるミャンマー詣では続いている。

 先日、お会いした某日系大手商社もヤンゴンの日本人駐在員は15人近いとおっしゃっていた。
 海外ビジネスに詳しい方ならわかると思うが、ミャンマー程度の小さな経済圏に、日本人15人というのは、もう尋常な気合いではない。
 気合い入りまくりの世界である。

 まだミャンマーに進出するには、かなり早いと感じる企業の方も多いだろう。もちろん業界にもよるが、僕の新興国の経験で言えば、少し早すぎるかな、と思うぐらいで進出するぐらいが、実はちょうど時宜を得ていることが多い。

 例えば、ベトナムの場合、消費財・食品セクターで大きなシェアを持つ日系企業は、味の素、エースコック、ロート製薬、久光製薬、ロッテなど。

 いずれも、1990年代半ばの第1次ベトナムブーム前後(味の素にいたっては、もっと以前)に、リスクをとって進出してきた企業ばかりだ。
 逆に、最近おっとり刀で進出していた企業は、周回遅れになるため、参入に相当苦労している。

 新興国の1年は、先進国の3年に匹敵する。
 3年進出が遅くなれば、約10年遅れたと思うぐらいの心構えで、先んじてリスクをとらないと出遅れると思った方がいい。

■ミャンマーは全方位外交

 ミャンマー投資に気合いが入りまくっているのは、何も日本に限った話ではない。
 ミャンマーは、原則として等距離外交。
 外交バランスを考慮しながら、各国からの投資を呼び込んでいる。

 前回の記事「急速に発展するヤンゴンと軍事的首都ネピドー」で、135もの民族が共存するミャンマーは東南アジアのユーゴスラビアと書いた。
 こうした多民族国家をバランスよく維持するためにも、ミャンマーは近隣諸国との全方位等距離外交をとっている。

 中国はヤンゴン国内を縦断する天然ガス・石油パイプライン(全長約1000キロ)を昨年完成させ、雲南省方面への輸入を開始した(ミャンマー人は資源泥棒と批判しているが)。

 シンガポール(ミャンマー人知識人層が数十万人居住)、タイ(ミャンマー人労働者が300万人居住)などからの投資も積極的に進んでいる。
 スーパーで売っている食品や日用消費財は、タイやシンガポール製が圧倒的に多い。

 ヤンゴン市内の数少ない5つ星ホテルであるセドナの横に建設中の巨大商業コンプレックスは、ベトナムの大手民間企業(Hoang Anh Gia Lai)が手掛けている。
 この会社はベトナムの元不動産大手企業だが、「ベトナムの不動産はバブル」という理由でベトナムの不動産からはほぼ完全に撤退。
 いつの間にか、ミャンマーに資源シフトしている。

 ミャンマーなど新興国での日本企業にとっての競合は、もはや欧米企業ではない。
 成長著しい他の新興国の企業である。
 彼らはスピードも速いし、動かせる金も大きい。

 NATO(No Action, Talk Only)と、その動きの遅さを揶揄される日本企業にとっては強敵である。
 しかし、彼らに勝たなければ、日本は新興国で生き残れない。
 少しでも多くの日本企業がミャンマーで躍動する姿を見たいものだ。



2014.10.24(金)  The Economist
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42046

ミャンマーの未来:百万の工場を立ち上げよ
(英エコノミスト誌 2014年10月18日号)

ミャンマーはタイのようになる前に、まずバングラデシュのようにならなければならない。
「ミャンマーの今を知る」連続セミナー開催のお知らせ


●経済開放に舵を切ったミャンマー〔AFPBB News〕

 ミャンマーのティラワ経済特別区(SEZ)の開発第1期には、400ヘクタール近い土地の整備と近くの港へ至る道路の建設が含まれていた。
 工業団地は来年半ばにオープンする予定で、入居を予定する企業22社の一部が今月末までに工場の建設に着手する。

 だが、真っ先に恩恵を受けるのはミャンマー経済ではない。
 ティラワ経済特区を開発しているミャンマーと日本の合弁会社の代表、梁井崇史氏は、団地に張り出す森の一角を占める修道院が多大な恩恵を受けると冗談を飛ばす。

 「この国では、修道院に手を出すことはできない」と梁井氏。
 企業が起工式を行うたびに、やがて壮大な黄金の仏塔を建てる資金になるかもしれない寄付金が修道院に入るのだ。

■経済特区、ミャンマーの未来に対する賭け

 修道士がミャンマーの過去を象徴しているとすれば、準備が進むティラワとあと2つの経済特区の入居企業はミャンマーの未来に対する賭けだ。
 3つの特区の中で最も開発が進んでいるティラワは、全面開業した時には7万人の労働者を雇い、国内向けの食料品、消費財、建設資材のほか、靴、自動車部品、衣料品などの輸出志向の商品を生産する。

 テイン・セイン大統領は2011年に、ミャンマーを再び世界経済とつなげることを約束して政権の座を獲得した。
 以来、楽観的な向きはあらゆる通りにスーパーマーケットとファストフード店が並び、モバイル技術のおかげで同国が発展段階をいくつも「飛び越え」、タイ、あるいはシンガポールにさえ肩を並べることを夢見てきた。

 だが、ミャンマーの経済的な未来は、未熟練労働者が輸出向けの労働集約財を大量生産することにかかっている。
 タイの水準の産業開発を切望する前に、西側の隣国であるバングラデシュのように低コスト製造の拠点になることを目指すべきなのだ。

 ただし、投資家が夢を見るのは正しい。
 ミャンマーは中国とインドという巨大市場の間に位置しており、タイには西方の海への近道を提供できる。
 シンクタンクのマッキンゼー・グローバル・インスティテュート(MGI)によると、2025年までに、所得が1日当たり10ドル以上の世界の消費者の半分以上がミャンマーから飛行機で5時間以内の場所に住んでいることになる。

 ミャンマーは耕地、水、天然資源に富んでおり、石油、天然ガス、
 そしてヒスイ、ルビー、サファイアといった宝石に恵まれている。

 タイの労働力人口は高齢化し、縮小し、人件費が高くなっている。
 これに対してミャンマーの労働力人口は安くて若く、国外で働く300万~500万人のミャンマー国民の一部の帰国によって恩恵を受けている。

 ジャスミン・タジン・アウンさんは、国内に機会を見いだせなかったため、2003年にシンガポールで金融を学ぶために国を出た。
 今では、会計事務所プライスウォーターハウスクーパースのミャンマー支社の代表を務めている。
 彼女によると、シンガポールでルームメイトだった3人(全員が金融を学ぶミャンマー人女性)も帰国したという。

■訪米したミャンマー大統領、国内の民族問題終結を呼びかけ

 何度か出だしでつまずいた後、政府は新しいビジネスが繁栄できるような市場経済を創造することに尽力しているようだ。

 ミャンマーがほぼ20年ぶりの総選挙を実施した2010年から2013年にかけて、外国直接投資(FDI)はほぼ3倍に膨らみ、9億100万ドルから26億ドルに増加した。
 外国銀行数行が限られた規模で事業を行うことを許可された。
 だが、大掛かりな金融自由化の準備が進められている。

 経済は今年と来年、7.8%成長すると予想されている。
 コモディティー(商品)輸出は増加しており、石油とガスの生産も増えている。
 中央銀行は今、財務省から正式に独立しており、スタッフを増員し、金融政策を実行する能力を高めている。

 やるべきことは、まだたくさんある。
 ビジネスのしやすさを測った世界銀行の年次報告書の最新版は、ミャンマーを189カ国・地域中182位にランク付けしていた。

 規制の不確実性は大きな問題だが、旧態依然とした法律にようやく目が向けられるようになった。
 企業活動の規則を定めたミャンマーの企業法は、1914年に英国によって制定され、手つかずのまま放置されていたが、今年、アジア開発銀行が政府に手を貸して法改正に着手した。

 物流会社CEAプロジェクツのミャンマー支社を率いるジョン・ハミルトン氏は、そうした法の改正はやがて、「法体系、金融システムを手探りで進む」必要性を減らすだろうと指摘する。

■訓練された労働力を生み出すまでの長い道のり

 極めて活発な規制の刷新と改革された中央銀行でさえ、よく訓練された労働力を生み出すことはできない。
 それには何年もかけて教育に莫大な投資を行う必要がある。

 平均的なミャンマー人は4年間しか学校に通わない。
 教師と生徒の比率は、マレーシアの1対13に対し、ミャンマーは1対30だ。
 他のアジア諸国の労働力人口が生産性と多様性を高める一方で、ミャンマーの労働力人口は反対方向に向かった。
 1965年から2010年にかけて、大陸の大半の国で農業従事者の割合が低下したにもかかわらず、ミャンマーでは35%から44%に上昇した。

 だが、この巨大な農業労働人口は有効活用できる。
 ミャンマーには1230万ヘクタールの農地がある。
 タイよりほんのわずかに少ないだけだ。

 ミャンマーはかつてアジア最大のコメ輸出国だったが、農業セクターは依然として、嘆かわしいほど非生産的だ。

 大半の農家は、多くの場合は機械や肥料を使わず、小さな稲田を耕している。
 ミャンマー農家連盟の代表、ソー・トン氏は、大半のコメが有機米なのは選択の結果ではなく、非有機農業がミャンマーの農村部に行き渡らなかったからだと指摘する。

 近代的な農法を少し導入しただけでも、農家とミャンマーの労働生産性全体に大きな影響をもたらすだろう。

■ミャンマー経済が輝くために必要な仕事

 また、そうすれば、より多くの人が都市部の工場での仕事を探すようになるだろう。
 これも、強力な成長の原動力だ。
 MGIの調査では、製造業とサービスから得られるGDPの割合が15%拡大するたびに、1人当たりGDPが2倍に増加することが分かった。

 工場や田畑での労働は魅惑的でもなければ面白くもないかもしれないが、人は常にコメや靴、コンクリートを必要とする。
 ミャンマー経済が黄金の仏塔に反射する太陽のように輝くためには、ミャンマーの大勢の未熟練労働者に生産的な仕事が必要なのだ。

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英エコノミスト誌の記事は、JBプレスがライセンス契約 に基づき翻訳したものです。
英語の原文記事はwww.economist.comで読むことができます。
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レコードチャイナ 配信日時:2014年11月16日 16時26分
http://www.recordchina.co.jp/a97484.html

ミャンマーで中国企業の黄金時代が終わる!
今後のライバルは日本と韓国―仏メディア

 2014年11月14日、ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)中国語サイトは、
 ミャンマーに対する欧米諸国の経済制裁がほぼ解除されたことによって、
 中国企業の黄金時代が今まさに終わろうとしていると報じた。

 中国の李克強(リー・カーチアン)首相は12日から14日までミャンマーの首都ネピドーを訪れ、東アジアサミットなどに出席した。
 ミャンマー外交部の報道官は李首相の訪問とミャンマーの関係について質問を受けた際、両国が伝統的に友好的な関係を保っていることに触れ、
 「ミャンマーは現在国際社会に向けて開放されており、他国とも協力する必要がある。
 中国側もこれを十分に理解してもらいたい」
と述べた。

 李首相はミャンマーで唯一の中国語紙「金鳳凰」の11日版に署名文書を掲載し、
 「中国はミャンマーの全方位外交を好ましく思う。
 ただし、これによって中国側の利益を損なわないことを望む」
と表明した。

 ミャンマーにとって中国は最大の貿易パートナーであり、
★.最大の輸入相手国、
★.2番目の輸出相手国
になっている。ミ
 ャンマーにおける中国の主要なライバルは日本と韓国になる可能性が高い。
 特に日本はミャンマーでさまざまなプロジェクトに参加するなど、近年の積極的な進出が目立つ。
 ミャンマーの空港を行き来する日本人も増加しており、ミャンマー警察当局の車両の多くは日本車が採用されている。
 また、サミット期間中には日本の親善広告がテレビ放送され、最後に安倍首相が画面に登場するなど両国の友好をアピールした。
 また、ミャンマーでは韓国の携帯電話と韓流ドラマが人気を博している。

 ミャンマーが国際社会と全面的な協力を開始したことによって、ミャンマーにおける中国企業の黄金時代は今まさに終わろうとしている。






【描けない未来:中国の苦悩】




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