2014年8月3日日曜日

中国の腐敗撲滅運動:「権力闘争」の裏で糸引く胡錦濤の影

_


 WEDGE Infinity 日本をもっと、考える  2014年07月30日(Wed)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4069
 石 平 (中国問題・日中問題評論家)

習近平の腐敗撲滅運動は「権力闘争」
裏で糸引く胡錦濤の「復讐」と「野望」

中国の習近平指導部は今、共産党政権史上最大規模の腐敗撲滅運動を展開している最中である。
2012年11月に習近平が共産党総書記に就任したと同時に、盟友で同じ太子党幹部の王岐山を腐敗摘発の専門機関である共産党中央規律検査委員会の主任に据えた。
おそらくその時点から、凄まじい嵐を巻き起こそうとする決意は既に習近平の心の中で固められていたのではないかと思われる。

 2013年3月、国家主席のポストを首尾よく手に入れて名実共に中国の最高指導者となってからは、習近平は上述の王岐山と二人三脚で、無制限の捜査権を与えられた規律検査委員会という強力な「大目付」機関を用いて、党・政府と人民解放軍の幹部、特に高級幹部たちに対する厳しい腐敗摘発を始めた。

 去年9月4日、中国新聞社は習近平が国家主席に就任して以降地方や省庁の高級幹部9人が汚職の嫌疑をかけられたことを挙げ、「近年まれに見る厳しい取り締まりぶりだ」と報じたが、それはほぼ誇張のない事実である。
過去30年あまりにおいて、腐敗問題で摘発を受ける高級幹部の数は毎年せいぜい6名前後であったから、今回の腐敗摘発運動の猛烈さは確かに前代未聞であると言えよう。

腐敗撲滅運動の真の目的は…

 以来腐敗の摘発はさらに猛威を振るって大きく前進した。
 去年の秋頃から摘発の矛先は中国共産党政治局前常務委員の超大物である周永康とその子分たちに向けられ、今年の3月からは、軍内の大物幹部である制服組メンバー2の軍事委員会前副主席の徐才厚ともう一人の軍事委員会前副主席の郭伯雄の身辺にも取り調べが及んだ。

 そして今年6月30日、習近平指導部は徐才厚の党籍剥奪を発表した。
 周永康の側近幹部だった公安省の李東生元次官や国有資産監督管理委員会の蒋潔敏元主任ら周永康の党籍剥奪も同時に発表された。
 特に徐才厚については、共産党軍事委員会の副主席で制服組のトップだった人物が腐敗摘発によって葬り去られたという前代未聞の事実が党内と軍内に大きな衝撃を与えた。

 その数日後の7月2日、指導部はさらに海南省の冀文林副省長や司法部門を統括する党中央政法委員会弁公室の余剛副主任らの党籍剥奪を決めたが、冀も余も前述の周永康前政治局常務委員の秘書を務めた経歴の持ち主であることから、周永康自身に対する摘発がすでに最終段階に入ったことが伺えた。

 このようにして、習近平指導部、というよりも習近平主席その人は今、党・政府と軍の幹部たちに対して史上もっとも大規模な腐敗撲滅運動を強力に進めていることが分かるが、
 彼は一体何の目的のために、このような凄まじい摘発運動を展開しなければならないのか。

 それを理解するためには、習主席の腐敗撲滅運動の中身をもう一度詳しく吟味する必要があろう。
 たとえば、高級幹部の一体どういう人たちが摘発されていて、逆にどういう人々が摘発されていないのかという視点から色々と調べてみると、腐敗摘発運動の隠された目的がはっきりと見えてくるのである。

ターゲットは江沢民派

 ここでは順番を逆に、まずはどのような高級幹部が摘発の対象となっていないかを見てみよう。前述の党籍剥奪された幹部たちやその他の摘発された幹部たちの出自や経歴を調べてみると、実は習主席や王岐山と同じ太子党の幹部、
 つまりその父親が毛沢東・鄧小平と同じ「革命第1世代」に属するグループの幹部たちは一人も摘発の対象になっていない
ことに気がつく。
 そして次には、摘発された幹部の中には、
 「共産主義青年団幹部」の経歴を持つ人はあまりいない
ことも分かる。
 要するに、前国家主席の胡錦濤の率いる共青団派という派閥の幹部たちも概ね摘発の対象から外されているということである。

 それなら、腐敗摘発は一体、どこの派閥の幹部たちをターゲットにしているのか。
 これに関しては、日本の一部の論者たちもすでに指摘しているように、
 腐敗摘発運動の最大のターゲットはやはり、江沢民元国家主席の率いる江沢民派(上海閥)の幹部たち
である。

 今まで摘発された最大の幹部グループはすなわち前政治局常務委員の周永康とその周辺の幹部たちであることは前述の通りだが、5月19日掲載の私の論文でも指摘しているように、周永康自身は江沢民派の大幹部の一人であり、彼の率いる石油閥こそが江沢民派の主力をなすものである。
 習主席の腐敗摘発運動はまさにこの石油閥に焦点の一つを絞って彼らに対する集中攻撃の様相を呈していたのである。

 その一方、解放軍幹部、より厳密に言えば解放軍の元幹部に対する摘発も結局、江沢民派の軍幹部にターゲットを絞って行われている。

 摘発された最高級の元軍幹部の徐才厚は紛れもなく江沢民派の軍幹部であり、軍における江沢民派の代弁者のような存在であった。

 徐才厚という軍人はもともと、元国家主席の江沢民によって抜擢され、制服組のトップの座についた人物である。
 彼が軍人としての大出世を始めたのは1999年に党の軍事委員会委員と軍の総政治部常務副主任に任命された時であるが、この人事を断行したのは当時の軍事委員会主席で国家主席の江沢民であった。
 2002年11月に開かれた第16回党大会で、江沢民は党総書記を辞めてからも一時は党中央軍事委員会主席の座を手放さず軍の指揮権を引き続き握っていたが、そのとき、江沢民は徐才厚を軍の総政治部主任に昇進させ、軍における自分の右腕として使った。

 総政治部主任という職は人民解放軍将校の人事に関与する立場であるから、徐才厚が人民解放軍の人事を握ることによって、江沢民の影響力の基盤を提供していたとも言える。
 2004年9月になって、江沢民はようやく党中央軍事委員会主席のポストを胡錦濤国家主席に引き渡したが、胡錦濤を牽制するために江沢民は徐才厚を軍事委員会における制服組のトップに据え、徐才厚を通して軍に対する影響力の温存を図った。
 このようにして徐才厚という人物は、2012年11月の第18回党大会において年齢制限による退陣となって党の全職務から退くまでずっと、軍における江沢民の代理の立場にいたわけである。

 もう一人の軍幹部である郭伯雄も、出世街道まっしぐらの経歴が徐才厚と驚くべきほど類似している。
 2002年11月に開かれた第16回党大会で党総書記を辞めた江沢民が引き続き軍事委員会主席の座にしがみ付いた時、軍事委員会の一平委員であった郭伯雄をいきなり軍事委員会の副主席に任命した。
 それ以来、郭伯雄は徐才厚と並んで、軍における江沢民派のもう一人の代理人となった。
 2012年11月の第18回党大会で徐才厚と共に退任した。

 そして、この党大会で党と軍のトップとなった習主席は体制を固めて腐敗撲滅運動に着手するやいなや、党と政府における石油閥・江沢民派に対する容赦ない摘発を進めていった。
 同時に、軍における腐敗幹部の代表格幹部として摘発のターゲットにしたのがまさにこの二人の江沢民派軍幹部である。

江沢民派の後押しを受けてきた習近平

 こうしてみると、習主席の腐敗撲滅運動のターゲットは党・政府と軍の両方においてまさに江沢民派幹部であることは明々白々である。
 そうすると、習主席の進める腐敗撲滅運動は、「腐敗」そのものの撲滅を目指したような単純なものではなく、むしろ摘発の対象を厳密に選別した上で党内のある特定の派閥を排除するための権力闘争であることは明らかであろう。
 要するに、腐敗撲滅運動の展開を通して、
 党・政府・軍における江沢民派勢力とその残党を一掃
するというのがまさに習主席の最大の政治的狙い、ということである。

 今回の腐敗撲滅運動の開始以来、党総書記と国家主席に就任してまもない習近平がどうしてこれほど大規模な政治運動を上手く展開できるほどの政治力を手に入れたのか、という疑問は常に付きまとってきたが、習主席と共青団派との「結盟」という視点から見れば、このような疑問も解けてくるのであろう。
 つまり、
 胡錦濤元主席の率いる党内最大派閥の共青団派の助力があったからこそ、習主席の腐敗運動は強力に進められた、
ということである。

 習主席が江沢民派勢力を党内から一掃しなければならない理由は実に簡単である。
 習自身、江沢民派の後押しによって今の地位についたが、2012年11月の党大会で習近平指導部が誕生した時、「習氏擁立」の功労者を自認する江沢民派はその勢いに乗じて、新しい最高指導部の政治局常務委員会に自派の大幹部を大量に送り込んだ。
 その結果、7名からなる常務委員会に江沢民派幹部が4名となり、習近平指導部が江沢民派によって乗っ取られたようなものだった。

そのままでは、習主席自身が最高指導部内の江沢民派幹部たちに強く牽制されて身動きもできない状況であり、何とかしないといけないと考えた習主席は結局、政治局常務委員会の枠組みからはみ出した規律検査委員会という特別機関を用いて江沢民派の追い詰めを始めたわけである。
 その際、摘発のターゲットはまず、既に引退した江沢民派幹部の周永康とその周辺に絞られた。中枢部に座っている現役の江沢民派大幹部たちよりも、権力を既に失った連中の方が摘発しやすいのも理由の一つであろう。

 しかも、既に引退した江沢民派幹部を容赦なく摘発することによって、政治局常務委員会にいる江沢民派幹部たちに脅しをかけることもできる。
 「いざとなったらお前らも摘発の対象にしてしまうぞ」と、彼らを黙らせて服従させることができるわけである。
 そうすることによってはじめて、習主席は江沢民派の包囲から脱出し、自前の権力基盤を作り上げることができるが、今のところ、習主席の作戦はかなり成功しているように見える。

虐げられてきた胡錦濤

 その一方、胡錦濤前主席の率いる共青団派は習主席の江沢民派潰しに助力していることの理由も実に明快である。
 2012年11月までの胡錦濤政権の十年間、胡錦濤主席自身と共青団派はずっと、党内と軍内最大勢力の江沢民派に圧迫されて散々虐げられていた。
 なりふり構わずの江沢民派幹部の猛威を前にして、胡錦濤主席は忍耐と我慢を重ね、時に泣き寝入りを余儀なくされることもあった。

 当時の胡錦濤主席はどうしてそれほどまでに江沢民派を恐れていたのだろうか。
 その理由は実は二つあった。
①.一つは江沢民派大幹部の周永康が「中央政法委員会主任」のポストに就いて中国の警察力を一手に握っていた
からだ。
②.そしてもう一つ、前述したように、江沢民は「引退」してからも、徐才厚と郭伯雄という二人の軍人を中央軍事委員会の中枢に送り込んで、彼らを代理として軍の指揮権を実質上掌握していた
からである。
 つまり胡錦濤政権時代の十年間、軍と警察の両方は実際、胡錦濤自身によってではなく、江沢民派によって牛耳られていた。
 だからこそ胡主席はずっと、江沢民派に忍従する以外になす術はなかった。

 別の意味で言えば、胡錦濤政権時代の十年間、江沢民の代理人として「胡錦濤虐め」に直接に関わったのはまさに警察トップの周永康と制服組トップの徐才厚と郭伯雄であった。
 したがって、習政権になってから、胡錦濤前主席と彼の派閥が習主席の江沢民派撲滅作戦に加担したのはむしろ当然の成り行きであり、その腐敗撲滅運動の最大のターゲットになったのは周永康・徐才厚・郭伯雄の数名であったことの理由もまさにここにあった。
 つまり今の腐敗撲滅運動は胡錦濤前主席にとって、往時の仇に対する見事な復讐作戦である。

 このような視点からすれば、今の腐敗撲滅運動は表向きでは習主席が主導しているように見えるが、裏で糸を引いているのはむしろ胡錦濤前主席ではないかという見方もできるのである。
 第一、今までの撲滅運動の中で摘発された大物の周永康にしても徐才厚にしても郭伯雄にしても、それらの連中は習主席の仇敵というよりもむしろ胡錦濤前主席の仇敵なのである。
 摘発の照準を誰に当てるかというもっとも重要な問題に関して、主導権を握っているのはやはり胡錦濤前主席であるようだ。

「第二の江沢民」となった胡錦濤

 それでは、引退したはずの胡錦濤前主席は一体どのような力をもって、現役の習主席を操って腐敗撲滅運動を主導することができるのか、という疑問は当然浮かんでくるだろうが、それに対する答えも実に簡単だ。
 要するに今、人民解放軍を握っているのはまさにこの胡錦濤前主席だからだ、ということである。

 そう、自分の政権時代の十年間、江沢民によって軍を握られ散々虐げられた胡錦濤は今、軍を掌握することで「第二の江沢民」になっているのである。

 胡錦濤による軍掌握の一部始終は2012年10月に遡る必要がある。
 この年の10月といえば、共産党第18回大会の11月開催を控えて胡錦濤の引退は間近になっていた。
 しかし、このタイミングで、胡錦濤は中央軍事委員会主席の権限において、人民解放軍の新しい参謀総長を任命した。
 それはすなわち現在の房峰輝参謀総長である。

 房峰輝はもともと広州軍区の参謀長だったが、2005年に当時の胡錦濤軍事委員会主席が初めて多くの軍人たちの軍階級昇進を実行した時、その中で房峰輝は少将から中将への昇進を果たした。
 それ以来、房峰輝は胡錦濤主席に近い軍人の一人として出世を重ね、2007年には重要な北京軍区の司令官に任命された。
 そして2009年、中国は建国六十周年を記念して天安門広場で盛大な閲兵式を執り行う時、「閲兵指揮官」として胡錦濤主席の側に立ったのはまさにこの房峰輝であった。
 それ以来、彼は数少ない「胡錦濤の軍人」として認知されるようになった。

 そして2012年10月、共産党総書記と党の軍事委員会主席からの引退を一月後に控えて、胡錦濤主席は突然、軍の作戦を担当する重要ポストの参謀総長に房峰輝を任命した。
 それはどう考えても、胡錦濤が自分の引退後の軍掌握を計るための布石以外の何ものでもない。
 引退以前の江沢民のやったことを、胡錦濤がそのままやろうとしているのである。

 胡錦濤の動きはそれで止まったわけではない。
 いよいよ11月に入って党大会の開催が目前に迫ってきた時、彼はまたもや動き出した。
 11月4日開催の中国共産党中央委員会、つまり胡錦濤自身が党の総書記として主宰する最後の中央委員会において。
 彼は軍人の范長龍と許其亮の両名を党の中央軍事委員会副主席に任命した。

 胡錦濤が行ったこの最後の軍人事は実に異例である。
 彼はその4日後の11月8日に開催予定の党大会において引退する予定である。
 本来なら、軍事委員会の新しい副主席任命の人事は、党大会後に誕生する新しい総書記・軍事委員会主席(すなわち習近平)の手で行われるべきである。
 普通の会社でも、新しい代表取り締まり社長が誕生すれば、次の役員人事は新しい社長の手で行われるのは普通であるが、胡錦濤はこの「普通のこと」をやろうとしなかった。
 自分の引退が決まる党大会開催わずか4日前に、彼は大急ぎで次の中央軍事委員会の最重要人事を自分の手で行った。
 習近平が新しい軍事委員会主席に就任した暁には、その周辺は既に「胡錦濤の軍人」によって固められたわけである。

 このようにして、2012年10月の参謀総長任命と11月の軍事委員会副主席任命をもって、胡錦濤は自分の引退後の軍掌握を完成させた。現在に至っても、共産党軍事委員会のただ二人の副主席は両方とも胡錦濤によって任命された軍人であり、もう一つの重要ポストの軍参謀総長も彼の側近が就いている。軍の中枢部は完全に胡錦濤の掌中にあるのである。
胡錦濤派が有利な状況で…

 このような形で軍を掌握しているからこそ、引退したはずの胡錦濤は影で糸を引いて習主席の腐敗撲滅運動(すなわち江沢民派掃討作戦)を主導することができたわけであるが、問題は、江沢民派の一掃を目指す腐敗撲滅運動がその目的を達成して終了してから、軍を握っている胡錦濤が一体どう動くのかである。
 それはまた新しい権力闘争の開始を意味するものとなろう。

 今の胡錦濤前主席と彼の率いる共青団派は、共通の敵である江沢民派を一掃するために習主席と連携していることは前述の通りである。
 しかし運動の目的が一旦達成されて江沢民派の残党が葬り去られて現役の江沢民派幹部も無力化されてしまうと、つまり共通の敵が消えてしまうと、次なる権力闘争はむしろ胡錦濤前主席と習主席との間で、すなわち共青団派と太子党との間で展開されていくはずである。

 胡錦濤自身が「第二の江沢民」と化して行く中で、習主席は今後十年もその顔色をうかがって生きていくのはやはり嫌であろう。
 とくに太子党である習主席の場合、自分たちの父親が命をかけて作った共産党政権に対して自分たちこそが正当なる後継者であり本当のオーナーであるという意識が強い。
 習近平は、「雇われ社長」の胡錦濤の政権壟断は許せないであろう。
 従って、江沢民派が潰滅した後には、習主席にとって排除しなければならない人物はまさに胡錦濤であるに他ならない。
 両者間の激しい戦いが予測されるのである。

 しかし習主席にとって、次なるこの戦いはまったく勝算のないものであろう。
 軍と警察を握った大幹部が既に引退して力の大半を失った江沢民派とは違って、今の胡錦濤が確実に軍を掌握している。
 6月27日掲載の私の論文でも、今や「胡錦濤の軍人」の代表格の一人となった房峰輝参謀総長の増長と跋扈を紹介しているが、軍の中枢部を占めている彼ら胡錦濤派の軍人たちが習近平主席を何とも思っていないことは明々白々である。

 その一方、胡錦濤派は軍だけでなく、実は共産党の政治局でも大きな勢力を擁している。
 政治局常務委員以外の18名の政治局委員のうち、いわゆる共青団派の幹部が7名もいて、さらに胡錦濤の息がかかっている軍人の二人を加えると、総数半分の9名を占めることになっている。
 しかも、政治局委員となっている胡錦濤派の幹部たちは現時点で50代前半である人が多く、最高指導部の年齢制限が定着している中で、彼らこそが2017年開催予定の次の党大会後も政治局に残る公算である。
 逆に、胡錦濤派以外の政治局委員の多くは現時点でも既に60代後半となっているから、次の党大会では確実に引退することとなろう。

 このような状況はどう考えても胡錦濤派にとって大変有利であるが、その中で焦点となるのは次の党大会で誕生する新しい政治局常務委員会の人事である。
 前述のように、今の政治局常務委員の7名のうち4名も江沢民派となっているが、彼ら全員は60代後半となっている。
 現在展開している江沢民派掃討作戦の中で彼らがいつ失脚するか分からないが、たとえば服従の姿勢を示すことによって次の党大会まで今の立場を維持できたとしても、この党大会では彼ら全員は確実に退場するのであろう。
 そうすると、次の党大会で誕生する政治局常務委員は半数以上の入れ替えが予測され、政治局から多くの幹部が常務委員会に上がってくる公算となる。

 それでは、現在の政治局委員の誰が上がってくることになるのかとなると、その時こそ、今の政治局で活躍している胡錦濤派の50代前半の幹部たちの出番となろう。
 年齢の優勢からしてもそうなってしまうのが普通であるし、胡錦濤が軍を握ったままの状況下なら、ほぼ間違いないと思う。

 そうすると、胡錦濤派(すなわち共青団派)の次なる政権戦略ははっきりと見えてくるのであろう。
 つまり、今の習主席たちと手を組んで江沢民派を一掃して江沢民の影響力を完全に排除した暁には、残された党内の最大勢力はすなわち彼ら自身である。
 そして、次の党大会までに(あるいは次の党大会において)政治局常務委員会から江沢民派の残党を一掃した後には、軍の支持をバックにして共青団派の若手幹部を政治局から大量に昇進させ、次期の政治局常務委員会、すなわち党の最高指導部を一気に掌握してしまうのである。

 そうすると、今から三年後に開かれる予定の党大会を経て、そのまま胡錦濤派の天下となろう。
 そしてその時こそ、在任中には江沢民派に抑えられて辛酸をなめ尽くした胡錦濤その人は、中国の実質上の最高指導者としてこの国に君臨するのである。

 おそらくそれはすなわち胡錦濤と共青団派の目指す「天下取り戦略」の全容であろうが、今や習主席が旗を振って展開している腐敗撲滅運動は結局、胡錦濤派による「天下取り戦略」の露払いであるにすぎない。
 習近平主席という人はむしろ、胡錦濤の手のひらで踊られている操り人形のようなものだ。

 言ってみれば、腐敗撲滅運動の陰で高笑いして、そして最後に笑うのは、やはり胡錦濤という江沢民以上の狸親父なのである。



 WEDGE Infinity 日本をもっと、考える  2014年07月29日(Tue) 
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4065
弓野正宏 (早稲田大学現代中国研究所招聘研究員)

徐才厚摘発を巡り暴露された中国軍の内情
摘発理由は薄煕来? 最大の「黒幕」江沢民との関係

 6月30日に放送された中国中央テレビの7時のニュースは衝撃的だった。
 徐才厚元中央軍事委員会(以下、中央軍委と略称)副主席が党籍剥奪処分となり、司法手続きに入る事が発表されたのである。
 当日の中央政治局で決定が下されたが、会議の様子の映像は流されず、処分の内容を文字画像で淡々と伝えた。


●徐才厚の党籍剥奪処分を伝える中央テレビの7時のニュース(6月30日)

 これまでも徐の汚職疑惑は華僑系メディアで伝えられてきたが、処分が与える影響の大きさから内々に処分されるか、処分決定が引き延ばされるのではないかとの見方が強まる状況での公式発表だった。
 徐摘発について香港メディアは既に3月中旬に彼が病院から連行されたと報道しており、30日の発表でそれを裏付ける形になった。
 香港メディアの報道はもともと玉石混交であり、真偽の検証は困難だが、今回のように後からその内容の正しさが証明される場合も少なくない。

 このような香港誌の中で中国軍を巡る内情暴露を連発するのが『前哨』誌だ。
 5月号では軍の高級将官50人が国防費の半額に当たる3400億元(約5兆7800億円)を勝手に配分したと報じた。
 今回の徐才厚まで波及する汚職をいち早く紹介したのも『前哨』誌だ。
 2012年3月号で中央軍委の拡大会議(2011年12月)において劉源・総後勤部政治委員が軍トップの汚職責任を糾弾したと伝えたのだ。
 これらの真偽はなかなか疑わしく証明しにくいが、少なくとも後者については徐の処分によりますます現実味を帯びてきた。

 そこで今回は『前哨』誌7月号の「軍中『瓦房店帮』の崩壊」という記事を紹介したい。
 これまでの記事ほどのインパクトはないがこれまでの過程が丹念に記述され、徐才厚の台頭やそのネットワークを窺い知ることができる。
 徐才厚の汚職、逮捕された薄熙来、そして「最大の黒幕」とされる江沢民との結びつきを詳細に紹介している。

 尚、同記事は30日の徐才厚党籍剥奪公表よりも前に執筆されており、徐才厚の更迭も見据えて分析がされている点も指摘しておきたい。

* * *

【2014年 香港『前哨』誌7月号(抄訳)】

 中共の軍隊は歴史的に派閥が乱立し、グループを組織し、派閥が作られてきた。大部分は歴史的経緯や政治的な結びつきによるもので地縁関係の結びつきはそれほど多くはない。于永波や徐才厚が取り立てた将官グループが「東北帮」(あるいは「東北の虎」と称される。「帮(パン)」はギャングのようなグループを意味する:筆者)と称されるが、的確ではない。地縁での結びつきが広い地域に及ぶことはなく、徐才厚派閥は「瓦房店帮」であり、軍内部でもこう称される。瓦房店とは大連市に所属する県級の市である。彼らは地縁を基礎に政治利益で結びついた派閥であり、メンバー出身地が瓦房店とは限らない。例えば谷俊山は河南省出身だが「瓦房店帮」一員とされる。

「瓦房店帮」の政治的拠りどころ


●本記事掲載の香港『前哨』誌7月号

 「瓦房店帮」の元々の大ボス、于永波は江沢民の子分である。
 1985年から1989年11月の間、南京軍区政治部主任を勤めた。
 この間、江沢民は上海市市長や上海市党委員会副書記、上海警備区第一政治委員(上海市を管轄する軍管区の政治担当司令官、自治体首長として兼任:筆者)を勤めた。
 形式上、于永波は軍内で江沢民の上司に当たる地位だったが、1987年に党中央の政治局員に昇格していた江を部下扱いせず礼を尽くして大事にしたため虚栄心の強い江は于に好感を持った。

 江外遊時に于が同行し、二人は意気投合し、江の信頼を獲得した。
 1989年11月に江が中央軍委主席に就任すると軍内で孤立無援だったため、于を2階級飛びの総政治部副主任(総参謀部、総後勤部とともに3つの軍中枢幕僚部門の1つ:筆者)に昇格させた。

 1990年に楊尚昆(直前まで主席の鄧小平の下で中央軍委副主席:筆者)、楊白冰(中央軍委秘書長、事務局長のような役割、現在はこの職は廃止:筆者)兄弟は軍統制を強め、楊尚昆は、兵種や軍区を超えた政治将校の人事異動を行った。
 政治将校の主な役割は軍内監視であり、幹部の異動、任免を通じて軍のコントロールを狙ったのだ。

 しかし、このとき于永波はただちに江沢民に告げ口をし、楊兄弟の「陰謀」をばらした。
 1992年春に鄧小平は中国南部を視察し、そこで発表した講話(改革開放を加速させようという「南巡講話」として有名:筆者)の中できたる党の14回大会で指導者入れ替えを示唆したため江は慌てた。
 曽慶紅(江沢民の秘書的存在:筆者)は楊尚昆と江沢民を離反させてこそ起死回生を図れると進言した。

 この時、楊白冰は昇進させる百人の将軍たちの名簿を提起したが、その大部分は「楊家の将(楊兄弟)」腹心だった。
 中央軍委第一副主席の楊尚昆は名簿を許可し、江沢民に許可を求めた。
 江は曽慶紅と相談して対応を考えた。
 曽は取りあえず棚上げして于永波と相談する事を提案した。
 于は、名簿は江沢民からの権力を奪取が目的だと指摘した。
 曽は、楊兄弟が「楊家の将」人脈を植え付け鄧小平の軍人脈にとって替えようとしていると考えていた。
 江沢民は于永波を連れ、鄧小平と会って告げ口したため、楊兄弟は鄧小平の信頼を失った。

 「楊家の将」を倒した(楊兄弟は1992年10月に失脚し一線から退いた:筆者)功を買われ、1992年に江沢民は于永波を中央軍委委員に昇格させ、総政治部主任に就任させた。
 こうして于は「瓦房店帮」を形成し始めた。
 1992年に于は瓦房店同郷の徐才厚を総政治部主任助理(総政治部主任の補佐官:筆者)兼解放軍報社社長に据えた。

 于の庇護の下、徐は昇進を続け、1993年の総政治部副主任から2007年には中央軍委副主席にまで昇格したが、于が2002年に退役する際に江沢民に徐を推挙したことを受けてである。
 江は徐を于の後任と見なし、中央書記処書記、中央軍委委員、総政治部主任に就けた。

 徐はこうして「瓦房店帮」の新たなボスとなり、于に続いて江沢民の子分になった。
 2004年に江は中央軍委主席に留任したが、2年経って主席を移譲する際に中央軍委拡大会議の席上で徐は中央軍委庁舎(八一大楼)に江沢民事務室を設置し、江を「軍委首長」と呼ばせるよう画策した。
 徐はこうした関係により軍の人事権を掌握した。

胡錦濤への忠誠を表明するも時すでに遅し

 2005年から2012年にかけて胡錦濤が中央軍委主席を勤めたが、自分の部下を育てることができず、人事異動や将校の昇格人事はほとんど徐才厚によって行われ、徐は江沢民の命令だけを聴くようになった。
 しかし、谷俊山事件が起きてから徐は自身の身が危うさを感じるようになり、公の場で胡への忠誠を表明したが、時すでに遅しだった。
 胡はその手に乗らず、党中央規律委員会に徐の汚職の証拠を集めるよう命じた。

 これまでの捜査から徐才厚の娘の結婚時に谷俊山(元総後勤部副部長)は1枚2000万元(3億円超:筆者)の銀行カードやトランクに500キロの金塊を積んだアウディを贈呈したことが判明している(徐の汚職も谷が逮捕されて発覚したと思われる。谷事件は2月13日記事を参照のこと)。
 谷俊山は、もともと濮陽軍分区の一将校に過ぎなかったが、金銭贈与で済南軍区政治委員だった徐才厚に見出され、済南軍区に異動になり、徐才厚の金庫番になった。

 徐が総政治部副主任から中央軍委副主席になるプロセスで谷も猛スピードで出世し、8年間で5階級昇格し、中将へと最速昇進を遂げた。
 谷は総後勤部で軍の不動産を一手に取り扱い、徐による官職売買のブローカ的役割を担った。
 官職売買の値段は大佐から少将への昇格が約3000万元(約5億円)で下級士官への昇格も数十万元というのが暗黙の了解になった。
 こうして谷が関与したとされる軍の官職売買は数百件に上ると見られている。
 関与者があまりに多く、中央軍委は、こうした人物を降格させるか否か決められずにいるようだ。

 瓦房店出身の将軍は30人に上る。
 現職では鄭群良中将(空軍副司令)、任忠吉少将(海軍後勤部副部長)等、退役では、谷善慶上将(元北京軍区政委)、陳国令上将(元南京軍区政委)もそうだ。
 人口わずか100万未満の県レベルの市からすると奇跡だ(1970年代以前は10万人未満:筆者)。
 もちろんこの将軍たちが皆、官職売買をしたとは考えにくく、徐と政治的パートナーかは不明だ。
 ただ同郷のよしみが果たす役割は情を重んじる中国社会では言わずもがなだ。

徐才厚摘発の原因は汚職ではなく薄熙来事件

 徐才厚は最大の汚職官僚であり、官職売買で100億元以上を懐に入れたが、今回このために摘発されたわけではなく、薄熙来事件に関わったことが一番の原因だ。
 習近平が政権を掌握後に更迭したのは、習の政権掌握を妨害した者と政権掌握後に執政を妨害した者がメインだ。
 徐才厚と周永康は治安維持を通じ、密接に協力し合い、仕事からプライベートの関係と利益の結びつきを強めた。

 薄熙来は大連市(瓦房店市を管轄)で在職中に徐才厚と関係を築いた。
 薄が大連市市長、党委員会書記だった時代に徐才厚に多くの利権を与え、深い関係を築いた。
 徐は軍内で昇進を続け、遼寧省の省長、商務部部長になった薄との交流を続け、徐に瓦房店市の開発や長興島工業区の開発を通じて利権を手にした。
 2006年に大連市は長興島(市・県より行政区分で1級下級の鎮)開発に着手したが、この工業地区への建設投資総額は243億元に上った。
 徐才厚は一族の長興島の開発責任者に推し、グループを形成しプロジェクトを一手に握った。

 徐才厚の周永康と薄熙来との関係についてはまだ捜査中だが、とりあえず徐才厚は薄、周による政変陰謀には深くは加担していないことが分かった。
 しかし、習近平にとって軍権掌握は急務だ。
 徐の影響力は軍内の重要部門に及ぶため、習は汚職摘発を通じて権威を確立し、言う事を聞かない頭目を牽制しようとしている。

 習近平は中央軍委の主席に就任してから谷俊山案を非常に重視しており、12回も指示や訓令、通知を出して徹底的に調べるよう指示したという。
 しかし、谷俊山や徐才厚に関わったといわれる中央軍委委員は現職、退職合わせ15人ともいわれ、習は彼らを徹底して調べるよう指示したという。
 この機に乗じて江沢民勢力を一掃して指揮統制を掌握しようというわけだ。

 現在の中央軍委副主席である範長竜も徐才厚と関係が深く、二人は第16集団軍で仕事をした経験があり、徐が集団軍政治部主任だった際に范は傘下48師団の参謀長で、その後、徐才厚が済南軍区政治委員に、範長竜は済南軍区司令員に昇進した。
 範の出世には徐の推薦があったといわれる。
 徐の処分は範を震え上がらせ、習のいう事を聴くようになったものの、それでも依然、重要部門を把握していることから、習近平は2013年3月に腹心の鐘紹軍を軍委に派遣して習近平事務局主任のまま、中央軍委弁公庁副主任(軍位は大佐)を兼任させたのである。

* * *

【解説】


●徐才厚(中)と郭伯雄(右)2013年9月

 この記事に驚くべき内容は特にないが、徐才厚の摘発が単に汚職だけによるものではないことを示唆する興味深い過程を描いている。
 徐の立身出世が同郷、瓦房店市出身の于永波との繋がりから始まり、そして天安門事件後に台頭した楊兄弟を打倒して江沢民が軍統制権を掌握する中で昇進したことが描かれている。
 徐才厚と薄熙来の関係が長興島開発を巡る利権供与で強められた点も興味深い。

 習近平がイニシアチブをとる汚職高官の摘発が党や政府、軍内部の汚職一掃が目的であることは疑いの余地はないが、同時に習が軍内部の指揮統制権を掌握しようというプロセスで阻害要因となる者を排除しようとしている点も重要なのだ。
 汚職の摘発は、激しい権力闘争の一つの現れであることも忘れてはならないだろう。
 習近平は「戦える軍隊」になれと檄を飛ばすが、
 現在で解放軍では汚職摘発と人事異動、そして機構改革と指揮官たちの気持ちが
 戦闘準備に向いているとは思えず、戦争どころではない。

 軍の汚職摘発を巡る過程で「最大の黒幕」まで及ぶ可能性は考えにくいが、もう一人の軍内の「老虎」郭伯雄元軍委副主席について糾弾する内部告発の手紙なるものがネットに出回り、彼の息子(郭正鋼・浙江省軍区政治部主任)も事情聴取されているという報道もあり、郭の去就が注目されるようになっている。
 習近平による軍内「虎退治」の行方にいよいよ目が離せない。



JB Press 2014.07.28(月)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41339
   阿部 純一

   習近平の反腐敗キャンペーンは「進むも地獄、退くも地獄」

「虎もハエも一緒に叩く」ことを大上段に掲げて始まった習近平の腐敗取り締まりキャンペーンは、現在までのところ、とどまることを知らない展開を見せている。
 
 中国で腐敗汚職に手を染めていない党官僚はほとんどいない。
  その現実のもとで、党官僚の浄化を徹底するとなれば、取り締まりは際限なく続くことになろう。

 だからといって、腐敗摘発を行わなければ中国はどうにもならないところまで来ていた。
 そのことは、2012年の第18回党大会から現在まで党中央紀律検査委員会(中紀委)によって摘発された腐敗幹部の顔ぶれを見れば一目瞭然である。

 香港の「大公報」紙のインターネットサイト「大公網」にある「国家反腐大業: 18大後落馬官員全解」を見ると、摘発された党官僚は67名に上り(7月24日現在)、そのうち副部(次官)級幹部が41名、正部(閣僚)級幹部が4名、副国(国家指導者)級が2名いる。
 これは江沢民や胡錦濤の時代にも見られなかった未曾有の摘発状況である。
 現在の中国が、かくも深刻な腐敗状況にあるかが分かる。

人民解放軍もターゲットに

 とはいえ、反腐敗を徹底的に追求すれば、党を筆頭に政府機関の権力機構は瓦解しかねない。
 そうならないようにする匙加減があるとすれば、これは実態として政治闘争となり、腐敗取り締まりは選択的に行われることになる。
 その際は、習近平政権が排除したい勢力に与していた党官僚がターゲットになるはずだ。

 ただし、摘発された顔ぶれを見ている限りは、特定のターゲットに絞り込まれているようには見えない。

 政府の腐敗行政官僚が摘発の中心であることは、先の67名中37と過半数を占めていることで分かるが、政府が牛耳る石油等エネルギー、電力、金融などの関連部門が腐敗の温床であったことを示すものであり、そこで利権を恣にした人物(例えば後述する周永康に連なる「石油派」など)が摘発の対象となったのは、政治的に選択されたというよりも、いわば当然の帰結であった。

 習近平が叩くといった「虎」のうち、前中央政治局常務委員の周永康がこれまで摘発された中で「最大の虎」ということになる。
 江沢民政権の時代に「中央政治局常務委員以上は摘発の対象とならない」という「潜規則」(不文律)ができたとされるが、習近平は周永康を摘発したことでこれを破ったことになる。
 それだけでも習近平の反腐敗に懸ける意気込みが窺える。
 ただし、周永康の場合は薄熙来事件との関わりがあるわけで、反腐敗もさることながら権力闘争との関わりで見るべきであろう。

 周永康に続いて、彼に繋がる国営石油企業を中心とした「石油派」幹部が大量に失脚した。
 そこでキャンペーンの矛を収めなかったことが、特定のターゲットを定めていない反腐敗キャンペーンのダイナミズムを示すことになった。

 そして「2匹目の虎」として、前政治局委員で中央軍事委副主席でもあった徐才厚上将が、今年6月30日、「党籍剥奪」され軍事法院に起訴された。
 これを機に人民解放軍にも粛清の嵐が吹き荒れることになった。

 人民解放軍を掌握すること、すなわち「軍権」の確保は、習近平の権力固めに必須の要件であった。
 習近平は反腐敗キャンペーンで解放軍にも容赦することはなかった。

 徐才厚摘発のきっかけは、軍総後勤部副部長であった谷俊山中将による、邦貨換算で3000億円にも上ると言われた「解放軍史上最大の汚職事件」の摘発であった。
 2012年に汚職の疑いで査問を受け、同年5月には正式にポストを更迭されていたところ、やっと2014年3月に軍事法院に起訴され、汚職の実態が公表された。
 この間、この汚職事件に関与していたとされる徐才厚も査問を受ける立場にあったと言われている。
 軍内部では、今後、徐才厚と同時期に中央軍事委副主席であった郭伯雄上将にも査問が及ぶ可能性がある。

 なお、谷俊山の軍内における「後ろ盾」は、江沢民弁公室主任から軍籍に転じ、軍総政治部副主任を務めている賈廷安上将とされている。徐才厚も郭伯雄も江沢民によって引き上げられた軍人である。ただし、賈廷安にはまだ査問の噂はない。

 人民解放軍は、2014年8月1日の「建軍節」を機に、7大軍区の司令員、政治委員など指導部を大幅に若返りさせる人事を断行すると報じられている。
 そうであるとすれば、それは習近平が軍内における実権を掌握したことを内外に示す人事であり、その意味において人民解放軍に対する反腐敗キャンペーンは「峠を越した」と言えるのかもしれない。

実体は政治闘争であり自らの権威づけ

 また反腐敗キャンペーンでは、政府や軍に限らず、不正蓄財に繋がりやすい利権の集中する部門だけが対象となっているわけではない。
 「大公網」の摘発リストには載っていないが、7月11日に中国中央テレビ(CCTV)の看板記者で人気キャスターであった芮成鋼が突然、検察に検挙されるという事件があった。
 CCTVの汚職摘発の一環と見られ、検挙されたのは芮成鋼にとどまらず、5月以来多数が連行されていた。
 リストに載っていないのは、中紀委ではなく検察の事案だからであろう。
 しかし、中国の新聞や放送メディアは「党の喉舌」であり、党や政府の宣伝を担う部門であることから、この事件が今後、党中央宣伝部に対する腐敗取り締まりに発展する蓋然性が高いと見られている。

 現状を素直に見るならば、反腐敗キャンペーンのターゲットは不断に拡大しつつあり、摘発のペースは2013年に21名だったところ今年はすでに20名に達し、むしろ加速しつつある。
 こうした状況が、「脛に傷を持つ」者たちを戦々恐々とさせている。

 「石油派」摘発の過程で、2014年5月に「石油派」最大の実力者と見られていた曾慶紅・元国家副主席が、上海市党委書記の韓正、江沢民・元国家主席の長男である江綿恒・前中国科学院副院長を伴って上海で姿を現し、さらに江沢民自身も同月下旬、訪中したプーチン・ロシア大統領と同じく上海で会談することで「健在ぶり」をアピールしたのも、習近平の反腐敗キャンペーンが自分の身辺に及ぶことへの抵抗であり、牽制であることは間違いないだろう。

 しかし、子細に摘発リストを眺めれば分かることだが、
 中国の建国に功のあった党元老の子弟は含まれていない。
 米国在住の著名な経済社会学者である何清漣氏がいみじくも指摘しているように、これが習近平の反腐敗キャンペーンの限界なのだろう。
 正統な「太子党」には手を出さない反腐敗キャンペーンは、その意味で政治闘争
にほかならない。

 ところで、毛沢東の「文化大革命」は、民衆を扇動して劉少奇や鄧小平といった「実権派」を追い落として権力を奪取するという「奪権闘争」であったが、運動の拡大に歯止めが利かず全国的な大混乱を引き起こした。
 習近平は、これまでのところ「上からの」反腐敗キャンペーンにとどめ、民衆に対しては言論の統制を強めることで「下からの」関与を防いでいる。

 これは「文革」の失敗を教訓にした部分もあるかもしれないが、反腐敗キャンペーンを制御可能なものにしておく必要を自覚しているからだろう。
 別の側面としては、習近平自身のリーダーシップを強化する狙いが見て取れ、その意味から自らの政治実績が乏しいという弱点をカバーし、権威を確立するための方策と見なすことができるだろう。

 習近平は、2013年11月に開催された党18期3中全会で設立が明示された党中央国家安全委員会や党中央全面深化改革領導小組のトップを占め、また最近では党中央財経領導小組をも率いることで、主要な権限を手中に収め、そのポストによって自らの権威を高めようとしている。その共通する目的から見て、反腐敗キャンペーンと表裏一体の関係にあると見られる。

反腐敗キャンペーンの限界

 国務院総理である李克強の影が薄くなるほど、権力の個人集中を実現した習近平にとって、非常に重い課題となるのは、いつまでも続けるわけにはいかない反腐敗キャンペーンの「幕引き」をどうするかである。
 この「線引き」はなかなか難しい。

 現在のところ、8月の北戴河会議で後述する周永康の起訴への党内コンセンサスを取り付け、秋の党18期4中全会で腐敗防止のためのスキームを決定するシナリオが想定されるが、そこには自ずと限界がある。
 習近平が、利権を独占する共産党の独裁体制に腐敗の根源があるという現実を直視し、民衆が党を監視し監督する「政治民主化」に舵を切ることができるかと言えば、それは絶対にできないからだ。
 それこそ共産党を解体に追いやる選択であり、「党の指導体制」という「国体護持」が習近平に課せられている絶対的使命だからである。
 結果として習近平は反腐敗に関して「対症療法」以上のことはできまい。

 さらに言えば、反腐敗キャンペーンのターゲットが絞り込まれていなかったことによって、汚職腐敗の摘発範囲が異常なまでに拡大してしまい、4中全会で「幕引き」がおそらくできないだろうということだ。

 習近平は一体どこまでやるつもりか──拡大する「疑心暗鬼」が中国の指導層に及ぼす影響が、行政の萎縮をもたらすことになればマイナスの効果しか生まないだろう。
 習近平に対する抵抗勢力の結集もあり得る。

 また、反腐敗キャンペーンを中途半端なままで終わらせてしまえば、党官僚の目に余る腐敗ぶりや法外な不正蓄財に不満を募らせていた民衆にとって、習近平のリーダーシップの限界をそこに見てしまうことになり、彼に対する求心力が失われかねない。

 「進むも地獄、退くも地獄」の現実に習近平は直面しつつある。



 WEDGE Infinity 日本をもっと、考える  2014年07月15日(Tue) 
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4024
小原凡司 (東京財団研究員・元駐中国防衛駐在官)

軍に忠誠を誓わせた習近平、江沢民派との権力闘争の行方

2014年6月30日、中国のメディアは、中国共産党中央政治局が、元中央軍事委員会副主席の徐才厚上将の党籍剥奪の処分を決定したと報じた。
 決定では徐才厚上将に汚職など「重大な規律違反」があったとし、この案件は既に司法機関に送られたという。
 今後、軍法会議において訴追されるということだ。


●党籍剥奪の処分決定が報じられた徐才厚
(写真:ロイター/アフロ)

 徐才厚事案もいよいよ大詰めといったところである。
 徐才厚は、江沢民に抜擢され、胡錦濤政権時代も江沢民の庇護の下でその影響力を行使し続けた。
 胡錦濤は2002年11月の第16回党大会で党総書記となったものの、江沢民が党中央軍事委員会主席の座を手放さず、徐才厚は第16期1中全会で党中央軍事委員会委員及び党中央書記処書記に選出され、総政治部主任に昇進した。

 総政治部主任という職は、全ての人民解放軍将校の人事に関与する立場である。
 徐才厚は、人民解放軍の人事を握ることによって、江沢民の影響力の基盤を提供していたとも言える。
 さらに、2004年9月の第16期4中全会において胡錦濤が党中央軍事委員会主席となっても、自身は同委員会副主席となって、人民解放軍ににらみをきかせ続けた。

 徐才厚は、2012年11月の党大会で、ようやく党中央軍事委員会副主席の職から退いた。
 表向きは正常な退官であったが、中国では、彼が既に拘束されて事情聴取を受けていたと言われていた。
 徐才厚の愛人は、それこそ、有名な話であったので、今更、愛人問題で失脚した訳ではないことは周知だった。
 江沢民派排除の動きは、胡錦濤から習近平に権力が移譲される中で既に始まっていたのだ。
 制服組のトップである徐才厚の排除は、その象徴である。

胡錦濤が目指した「制度化」

 胡錦濤は、最後まで江沢民の影響力から逃れることができなかった。
 しかし、胡錦濤は、江沢民の影響力の下でも改革を進めようとしていた。
 その内のひとつが、江沢民が進めた「反日愛国主義教育」の行き過ぎの是正である。

 胡錦濤は、江沢民が中国全国に建設した「愛国主義教育基地」の数をさらに増やしている。
 と言うと、反日教育をさらに推し進めたように見えるが、胡錦濤が建設した「愛国主義教育基地」には抗日戦争に無関係のものが多く含まれていた。
 例えば、人民解放軍が農民のために建設した用水路等である。
 胡錦濤は、愛国主義教育に占める「反日」の濃度を薄め、「愛国主義=反日」の構図を変えようとしたのだ

 さらに、人民解放軍の汚職を減少させるために、装備品の中央調達化も進めようとした。
 胡錦濤が進めようとしたのは制度化である。
 鄧小平が開始し、江沢民が逆行させた制度化を、忠実に進めようとしたのだ。
 しかし、胡錦濤の制度化には限界があった。

 2012年11月の第18回党大会において、胡錦濤は全ての権力の座から退いた。
 江沢民のように中央軍事委員会主席の座にしがみつき、影響力を行使しようとはしなかった。 2012年9月の日本政府による尖閣諸島購入後、人民解放軍から胡錦濤に対して「中央軍事委員会主席に留まるよう」要請があったが、胡錦濤はこれを断っている。

 「習近平体制は、5年後の党大会時に定年のために現職を退く者が多く、結局、胡錦濤が再び実権を握ることができるという自信の表れだ
という主張もあるが、制度化の努力を江沢民に阻害され続けた胡錦濤にとって、制度を無視して権力にしがみつくことは自らの主義を否定することになる。

 人民解放軍が胡錦濤に中央軍事委員会主席の座に留まるよう要請したのは、軍内を江沢民派で固めていた方が日本に対抗するのに有利だという判断があったかもしれない。
 胡錦濤が完全に引退したのは、江沢民の影響力を排除する目的もあったと考えられる。
 江沢民を道連れに引退したのだ。

 また、江沢民は、中央政治局常務委員の人数を9人から13人に増やすことによって江沢民派の優勢を保とうとしたが、胡錦濤はこの目論見も潰した。
 自身の引退時に、政治局常務委員を9人から7人に削減したのだ。
 習近平は、出発時から江沢民の影響力を最小限に抑えることができたのである。

軍と手打ちを済ませた上で徐才厚を起訴

 それでも習近平指導部が改革を進めるためには、さらなる江沢民の影響の排除が必要だった。
 現在の党・政府機関や国有企業等の利益団体の幹部は皆、江沢民の影響下で出世しているのだ。
 これらを全て排除したのでは、党も政府も機能しなくなってしまう。
 習近平主席は、江沢民の影響を排除しつつ、党・政府の機能を維持しなければならない。
 落としどころを見つけて、「手打ち」をしなければならないということだ。

 徐才厚事案も、周到に根回しされている。
 2012年12月、総後勤部副部長・谷俊山中将(当時)に対して調査を開始し解任した。
 徐才厚は谷俊山の後ろ盾である。
 調査に1年以上の時間をかけ、2014年3月31日、中国政府・国防部は谷俊山を収賄、公金横領、職権乱用の疑いにより軍事法院に起訴した。

 徐才厚が逮捕されたと報じられたのは6月に入ってからである。
 徐才厚には、自殺説も流れるほど長い時間、処分を決定することが出来なかった。
 この期間、習近平主席は、他の軍幹部たちとの落としどころを探っていたのだ。
 「手打ち」は、目に見える形で現れた。
 4月2日付の中央軍事委員会機関紙である解放軍報が、七大軍区や海軍、空軍、第二砲兵の司令官など18人の署名入り忠誠文を掲載したのだ。

 今後、よほどの反抗がない限り、軍における大規模な粛清は行われない。
 その代わりに忠誠を誓わせたのだ。
 軍の大規模な造反も生起しないだろう。
 習近平主席は、軍と手打ちを済ませた上で徐才厚を起訴したのだ。

強大な地方の権力

 徐才厚の処分が決まらなかったため、2006年の上海党委員会書記・陳良宇事案の際の中央政治局常務委員・黄菊(当時)のように、「公開されず、逮捕されず、判決を受けず、表ざたにされない」という方式が適用されるのではないかという憶測も流れた。

 陳良宇事案とは、上海のトップであった上海党委員会書記・陳良宇(当時)が社会保障基金を個人的な投資に流用し、違法に利益を得ていた事件である。
 これに関与していた黄菊は、結局、その罪を追及されず、彼の病死後、彼に連なる人たちが裁かれた。
 徐才厚が、膀胱癌で余命いくばくもないとされながら処分されたのとは大きく異なるのだ。

 中国共産党中央は、日本で考えられているほど強力ではない。
 胡錦濤は、陳良宇を拘束するに当たって、上海市の武装警察責任者・辛挙徳を更迭し峡西省の武装警察主任・劉洪凱少将を任命している。
 劉少将は、胡錦濤に忠誠を誓い、陳良宇の拘束に貢献した。
 しかも、陳良宇を拘束したのは上海の部隊ではなく、江蘇省の部隊だった。
 上海の武装警察は上海市指導部の影響下にあり、中央の命令に従わないと考えられたからだ。

 それほど、地方の力は強いのである。
 中国共産党中央は、基盤を持たず、各地方の権力の上に神輿のように担がれている。
 陳良宇事案は、中国指導部が地方に手を出すのがどれほど難しいかを示すものだ。

鉄道、石油利権集団との闘争を展開する習近平

 日本では、習近平は権力掌握ができていないという評価もあるが、そうは考えられない。
 少なくとも、過去に誰も手を付けられなかった改革を実行している。
 既得権益を侵される権力者や地方、利権集団が反発し、種々の抵抗を示すのは当然である。

 中国経済・社会は危機的状況にある。
 少なくとも中国指導部はそう認識している。
 改革を進めるために、組織、地方及び利権集団の権力掌握を進める必要があると考えているのだ。
 習近平主席は、軍の権力掌握を進めると同時に、鉄道及び石油といった利益集団を掌握するための闘争を展開している。

 2014年1月6日、中国国家鉄道局がひっそりと看板を掲げた。
 鉄道局は、2013年3月に解体された鉄道部の後継機関である。
 中国の「部」は日本で言う「省」に当たり、鉄道局は降格された格好だ。
 しかも、引き継いだのは行政部門だけで、輸送等の事業部門は国有企業として発足した中国鉄路総公司が引き継いだ。
 実質的に権益を生む部門は鉄道局から切離されたのである。

 中国でも、新しい組織が発足する際に組織の新しい看板を掲げるのは象徴的な行事である。
 ニュースでもよく見かける光景だ。
 しかし、鉄道局の「掲牌儀式」は報道されることもなかった。
 そのことが、鉄道利権が習近平主席に抑え込まれたことを示唆している。

 中国では、習近平主席に率いられた「反腐敗」が現在も展開中である。
 石油利権の大ボスでもある周永康の処置もまだ決定されていない。
 中央政治局常務委員まで務めた周永康に対して法的措置を採られるとすれば、これまでになかった異例の措置になる。
 周永康が公に処分されれば、江沢民にまで手が伸びる可能性もある。
 江沢民派の抵抗は益々強くなるだろう。

 中国では、現在でも権力闘争に勝利するための最終手段は「武装力量」であると信じられている。
 人民解放軍との手打ちを済ませた習近平指導部は、今後も、改革の前提となる権力掌握のための闘争を続けるだろう。
 既得権益の深層に切り込めば切り込むほど、既得権益側の抵抗は激しくなる。
 国内の権力闘争は対外政策にも影響を及ぼす。
 抵抗勢力は、指導部の権威を失墜させるために、周辺諸国との摩擦を故意に起こすこともためらわない。
 周辺諸国は、外交努力と相反する中国の強硬姿勢の背景を理解して対処する必要があるだろう。